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パリの地下に潜むもう一つのパリ

Paris souterrain1

イラスト:りんたろう

数ヶ月前だっただろうか。我家の建物にもいよいよ光ファイバーが開通するという1通の手紙が届いた。しかしこれで両手を挙げて喜んでいられないのがパリなのだ。光ファイバー網が敷かれたとはいうもののそれはパリ全土の地下壕までであって、そこから築100年以上の石造りの建物に新たな回線を通す地上作業があるわけで、これが遅々として進まない。

建物の理事会と管理会社が回線事業者を選び、そこから下請け会社の作業の段取りをし、結局作業員たちが来なかったからまた段取りをし直し…、と繰り返しながら月単位、いや年単位の時が流れてゆく。正直なところ年単位はちょっと困るのだが、これがパリ事情なのだとのんびり構えることにしている。

パリ全土に広がる地下には光ファイバーをはじめ電線やガス管、電話線や下水道など日常生活に関わる様々な通信網や管が蜘蛛の巣状に張り巡らされ、地下鉄も迷路の如く走っているが、実はそれだけではない。地上からはまるで想像もつかない、もう一つのパリが存在するのだ。

地下20~25メートル付近では、パリの発展に伴い建設用の石材が必要となったため、何世紀にも渡り石灰や石膏が採石され、ノートルダム寺院などの建立にもその石が使用された。つまりパリの街は文字通り自らの身を削って形成されたのだ。まさにチーズに例えられるほどパリの地下は穴ぼこだらけだという。

しかしあまりにも無計画に採石が行われたために落盤事故が相次いだことから、1777年に採石所検査院なる機関が設置され、通路となる回廊も整備された。壁には地上と同じ位置に同じ通りの名前が記され、まるでパリの街の分身が地下に存在する形となった。地名や番地は18世紀の歴史を今に残しているので、地上では失われてしまった当時の歴史を発見することもできる。道しるべとして鳥や木の絵が壁に描かれていたり、地上に教会がある場所にはユリのマークが刻まれている。このユリの刻印はフランス革命の際に大部分が削り取られたため、今ではほとんど残っていないそうだ。

地下の観光名所として最も有名なのはカタコンブだろう。1786年以降、パリの教会付属の墓地を整備するため、600万人分もの遺骨が移送されて作られた納骨堂だ。現在のパリの人口の3倍近い人数の骨が一堂に会し、頭蓋骨が綺麗に並べられた死の楽園とも言える珍名所を訪れようと、今もなお世界中からの観光客が日々長蛇の列を作っている。

採石所の再利用はバラエティに富んでいて、19世紀にはマッシュルームの栽培が大規模に行われたり、他にもチコリの促成栽培やビール醸造、また野菜貯蔵庫やワイン倉庫にも利用され、食に関する歴史も深い。

パリの地下愛好家たちは『カタフィル』と呼ばれ、立入禁止になった今もなおマンホールや小さな隙間をすり抜けて地下に潜りこみ、秘密のパーティーなどを開いて楽しんでいるという。地下に映画館があり定期的に上映会が開かれていたことが発覚し、警察沙汰になったのも記憶に新しい。

我家のちょうど下辺りには、カタフィルたちの間で『ビーチ』と呼ばれている部屋があり、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』を模したグラフィティアートが壁一面に描かれているそうだ。パリの地下に広がる浮世絵の大波に囲まれた砂浜で、夜な夜な一体何が行われているのだろうか。奥深い世界が広がるもう一つのパリは今もなお、光を浴びる地上の街の影の顔としての役割を担い、新たな謎が生み出され続けている。

それはそうと、光ファイバーが我家に届くのは一体いつの日になるだろうか? これもまた、パリの謎である。