WORKS 実績紹介 WORKS 実績紹介

BLOGブログ

美しき5月・からっぽの8月

Joli Mai & Cafe

『美しき5月(Le Joli Mai)』という1963年のドキュメンタリー映画が修復され、フランスの映画館でリバイバル公開された。監督はクリス・マルケル。ナレーションはイヴ・モンタン。パリで暮らす普通の人々の普通の暮らしを捉えた作品で、ミシェル・ルグランの音楽とモノクロの映像が心に語りかけてくるフランスドキュメンタリーの傑作の一本だ。年齢も職業も全く異なるパリの住民たちが、政治、経済、家庭、恋愛、アイデンティティなど様々なテーマについて各々の思いを自分の言葉で語っている。50年前のパリはこんなだったのかと驚く一方で、50年前の人の口から発せられる言葉があまりにも今の時代に通じることにも胸を突かれる。

映画を観終わり映画館から出てくると、スクリーンで見ていた半世紀前のパリとは全く違う空気が流れていた。建物はほとんど変わっていないのだから景色は当時とさほど変わらない。それなのに何かが違う・・・50年も経っているのだから当り前と言えば当たり前なのだが、この違いは一体なんなのだろう・・・。

8月を迎えパリはバカンスシーズン真っただ中である。毎年恒例の「街が空っぽになる」時期だ。最近では休暇の過ごし方も多様化し、夏でもパリにとどまる人口は年々増えている。それでもやはり住宅地に一歩足を踏み入れれば通りは閑散とし、パン屋も八百屋も肉屋も薬屋もカフェも閉まり、まるで時が止まったかのようだ。

この季節になると必ず思い出すことがある。アニメーション映画の今敏(こん さとし)監督の言葉だ。2006年に『パプリカ』という映画がフランスで公開された際、映画のプロモーションを一緒に行ったのだが、あの時のある一言を今でもよく覚えている。何十人ものジャーナリストを相手に個別の取材を行うため、フランスの配給会社の宣伝チームは豪華ホテルのスイートルームを用意していた。これぞフランスと言わんばかりのクラシカルな家具が置かれた部屋の椅子に座り、30分おきに入れ替わり立ち替わりやってくる記者達を前にして、監督は質問にひとつひとつ丁寧に答え、私はそれを訳していった。

取材も終盤に差し掛かった頃だろうか。私がフランス語に訳している最中、監督はボォっと窓の外を見つめ、訳が終わった瞬間すぐに口を開き記者にこう言った。

「今、私はパリのホテルの綺麗な一室であなたに話をしている。この映画を作った頃を思い出しながら質問に答えている。でもこうして翻訳が終わるのを待っている間でさえ、頭の中ではつい、今日も東京のむさくるしい部屋で作業をしているスタッフ達のことを考えている。パリと東京、過去と現在、頭の中か外かという違いはあるにしても、複数の時間と空間が今この一室で同時に存在している。これは紛れもない事実なのです。」

空っぽの8月のパリは、そうしたいくつもの時代と空間が並行し交差するパラレルワールドの存在を肌で感じさせる。50年前のパリ、20世紀、19世紀、いやもっと前にこの地に生きた人達が、待ってましたとばかりに我がもの顔で空っぽの街を闊歩し、夜な夜な繰り出す姿が目に浮かぶ。静かな故にその喧騒が際立つのだ。『美しき5月』のモノクロの人物たちが久しぶりの我が家を楽しむ。モンパルナス界隈を歩けば、20年代のエコール・ド・パリの画家たちが賑やかに騒いでいる。そして8月の暑い夏に他界した今監督も、「夏季休暇中」の札がかかったカフェの片隅で、大勢の幽霊たちに混じりながらワイングラスを傾けているに違いない。